電気通信大学の思い出¶
2013-03-23公開
世の中には勤めている企業などを退職した際に退職エントリと呼ばれる釈明文を書く慣わしがあるらしい。私も今年の3月をもって電気通信大学大学院博士前期課程を修了する。学部を含めて6年も通ったので私にも退職エントリならぬ修了エントリという釈明文を書く権利があると思い、大学・大学院生活の思い出話を書いてみることにする。
大学入試¶
当初は東京工業大学第1類(理学部)が第一志望だった。中学生の頃は社会科が好きで、当初は文系志望だったが、高校二年生ごろから数学に興味を持ち、大学でも数学を学びたいという気持ちが強くなっていった。Fermatの最終定理に関する一般向けの本や啓蒙書も読んでいた。だが、センター試験では数学2Bでひどい点数を取り、英語・国語で7割ほどという成績を数学で補う目論見は外れてしまった。某予備校のチューターからは地方の国立大学理学部数学科を勧められたが、下宿は無理だった。予備校の自習室で項垂れてセンターリサーチの冊子を眺めていると、電通大の広告が目に留まった。確か高校の友人がここを受けると言っていたなと思い、自分の結果と電通大のボーダーラインを見比べるとA判定が出ていた。某予備校のA判定は合格率が8割ほどなので、これは合格できる、しかも新宿から15分と近い、と電通大に強く惹かれるようになった。高校入学以前から国立大学に執着していた。紆余曲折の末、前期日程は東工大、後期日程は当初の横浜国大から電通大へ変更した。なお、併願校は学習院理学部、立教理学部、東京理科大理学部、早大基幹理工、早大教育であった。結果として学習院、立教、電通大に合格した。その程度の学力だったということである。同級生は2月中に進路を、早い人は11月ごろに決める中、国立組は卒業式になっても進路未定という寂しい状況だった。電通大は後期で受かったため、私の進学先を知らない人が多いのではないかと邪推している。浪人は一切考えなかった。電通大でも数学そのものではなく、暗号理論や情報理論など数学に近い分野を学べそうだったこと、そして受験勉強をもう1年続けるのは耐えられないと思ったからである。
学部1年¶
電気通信学部情報通信工学科に入学した。期待していたものの、講義は面白くなかった。線形代数も、工学的要請から基本変形のやり方だけを教える天下り的な内容で、数学としての面白さがなかった。サークルは通学距離の関係で夜遅くまで参加できないため加入せず、学友会や生協学生委員会系統にも胡散臭さを感じて入らず、講義を受けて帰るだけの生活だった。恐らく、入学前にダミーサークルの話などを聞き、余計に胡散臭く感じていたのかもしれない。幸い、電通大はクラスでほぼ同じ講義を受ける形態だったので、孤立はしなかった。もし他大学のように履修がバラバラなら、詰んでいたかもしれない。
「基礎セミナー」と呼ばれる講義があり、前半はオムニバス形式、後半は各研究室に配属されセミナー形式で学ぶ構成だった。前半は大して面白くなかったが、後半のセミナーでアルゴリズムの話を発表し、先生(後の副指導教員)に褒められた記憶がある。入学前あたりにLaTeXの存在を知り、基礎物理実験の第1回レポートから使い始めた。前期は法学Aと露語第一を落とした。人並みにアルバイトも始め、高校生の頃に通っていた某予備校で大学生チューターとして働いた。そこで、予備校は慈善事業ではなく、利益を追求しなければならないという現実を知った。地元にある某予備校グループの塾でもアルバイトを始め、大学生チューターは1年生で辞めたが、地元の塾は学部4年の前期まで続けた。夏休みは『キングダム ハーツ』をずっとやっていた。サークルにでも入っていれば、合宿などがあったのかもしれないが。調布祭には参加せず、課題として出された解析学の無限級数の問題をひたすら解いていた。そのレポートが、調布祭に参加していた人たちに売れた。
後期も大半の講義は退屈だったが、一つだけ面白い講義があった。離散数学第一である。離散数学とはいえ、実態は集合・論理・写像・関係といった、離散数学に限らず現代数学に欠かせない概念を扱う内容だった。(今思えば)基本的な事項とはいえ、当たり前なことから当たり前ではないことを示す、その過程が面白かった。他の人には難解な講義だったらしい(履修者の約25%が不可)ものの、目的が明快で楽しい講義だった。
学部2年¶
1年生の成績が芳しくなく、このままではよくないと思い、2年生から一念発起してまじめに勉強することにした。きっかけは「電磁気学第一・同演習」という講義である。第一回演習の結果がB×とCで、このままでは単位を落とすと確信し、附属図書館で猛勉強――もとい、参考書から解答を抜き出して納得する作業に取り掛かった。もちろん参考書と同じ問題だけではないので、似たような問題を探し、解答を万年筆で書き下ろす作業を淡々と行った。演習前の昼休みには私の周りに人が集まり、答え合わせをしたり、そのまま写したりしていた。所詮私も参考書から写しているだけなので、対価を要求することはなかった。むしろ、こちらから積極的に提供することで、こちらからも要求しやすい雰囲気を作り、互いにこの難局を乗り切ろうという思惑だった。その目的を達成するため、よく勉強会を開いていた。附属図書館にはグループ学習室という便利な施設があり、そこで行っていた。私の意図としては、各々が得意な分野で全員を引っ張り、苦手な分野は周りに助けてもらうという相互扶助の会にしたかったのだが、実態は、ほぼ全教科できる人たちに、できない人たちが群がるという構図だった。ただ群がるならまだしも、その場で得た結果を我が物顔で広める場面もあった。互いに教え合うのが理想だったのに、そうならない現実があった。無事、電磁気の単位などは取得できたが、何ともいえない状況だった。
学部2年にも、面白い講義はあった。英語の講義である。その講義は講義というより、ひたすら英語の絵本やリトールドを多読させるセミナーだった。「多読させる」といっても強制ではなく、自発的に読みましょうという雰囲気だった。今でも英語はそれほど得意ではないが、少なくとも数学に関するリーディングなら、英語自体はそれほど苦ではなくなった気がする(もちろん数学的な問題は残るが)。
後期の講義に深い思い出はないが、空き時間に勉強するようになった。調布祭では友達の出店の様子を見つつ、研究室見学をした。11月に3年生向け研究室配属のための懇親会があった。当然2年生なので参加資格はないが、話を聞いてみたいと思い忍び込んだ。世話人が離散数学第一の先生(後の指導教員)で、面が割れていることに気づいたが、気にせず乾杯。本当は暗号の研究室や、噂に聞いていた信号処理の研究室の様子を見るのが目的だったが、先生の研究室が暇そうだったので院生(後の先輩)と話す。何せ面が割れているので、さっさと立ち去るべきだったのに話し込んでいたら先生がやってきた。嘘をついて3年生のふりをしても仕方ないので「2年生です」と告げると、さすがに驚いていたが「むしろやる気があっていいね」と言われた。先生の講義を受けていたと言うと「名前何だっけ」となり、名前を告げると「ああ! 君か!」と。その後、数学についてずっと話し込んでいた。後に、1つ上の研究室の先輩、つまり本来先生と話をするべきだった学生から、ずっと話し込んでいて近づけなかったと言われた。研究室に入るうえで必要な数学は何かとなったとき、線型代数がわかればよりよいという話になったかはよく覚えていないが、線型代数をやるとよいという話はあったはずである。そこで後日、書店に赴き、佐武先生の『線型代数学』を購入した。線型代数のちゃんとした教科書として、これと斉藤先生の『線型代数入門』しか知らず、最初のほうだけ読んで『線型代数学』のほうが読みやすく感じたのでそちらを選んだ。世間の教科書は『線型代数入門』の一部を極薄にして抜粋したようなものなので、それでよかったと思う。いざ読み始めてみるとよくわからない箇所があり、先生に聞きに行くことにした。そして先生から「じゃあ、そこに至るまで説明してよ」となり、説明を始めた。そこから先生と線型代数の自主セミナーが始まった。自主セミナー自体は、自然に学部4年の輪講に昇華した。
学部3年¶
学部2年までは概ね全員同じ講義を受けるが、学部3年からは講義が大体、情報系と電気電子系に分かれる。クラスの人たちは大体電気電子系に流れていったので、講義を1人で受けることが多くなった気がした。自然と勉強会というイベントを開くこともなくなった。専門講義では情報理論に困惑し、暗号理論に絶望し、符号理論に感動した思い出がある。いずれも数学と関連する講義であるが、情報理論は確率論に慣れておらず、暗号理論は数学を用いず、符号理論は線型代数を用いたので、そのような感想を抱いたのではないだろうか。面白いと感じた講義は、離散情報構造特論という大学院の講義である。ある日、先生から「今からなら始まったばかりだからついていけると思うので、大学院の講義に出てみませんか」というメールが来た。その講義は Alon, Spencer『The Probabilistic Method』を元にしたもので、タイトルの通り確率的手法の講義であった。講義は英語で、周りは大学院生だったが、平然とした態度で最前列に座り、あたかも正規の学生ですよという面をして聴講していた。特に感動したのは、今まで宝くじがいかに儲からないかという応用しか知らなかった期待値が、数学においてもかなり役に立つと知ったからである。もちろん統計学や工学でも期待値は仕事をしているはずだが、純粋数学、特に組合せ論においても大活躍していることに感動した。講義後も質問をするなど、他の講義より熱心に聴いていた。組合せ論における期待値は私の修士論文でも活躍しているので、その意味ではとても役に立っている。講義中に Kuhn『科学革命の構造』の話題になり、「え、知らないの?」と自分の非常識さを思い知らされて、早速読んでみたりもした。学科実験という重めの実験も始まった。最も大変だったのは電気電子系の実験だった。電気回路は講義を受けていたがほとんど理解できず、試験を過ぎると忘れるという体たらくであり、実験では IC チップを燃やすという事態も起きた。一方、信号処理など計算機で行える実験は騒ぐほどの難度ではなかった。むしろ私の置かれた状況は、実験レポートをどうするかより、自主セミナーの準備をどうするかということだった。週1回のペースで行い、厳密に説明しないといけないので非常に大変だった。『線型代数学』の第一章は正直簡単だったが、第二章の行列式から大変だった。群論に慣れていなかったどころか、離散数学第一で学んだことを完璧に分かっていないといけないのが辛かった(群の剰余類分解など)。また、行列式の概念は1年生の講義とは違い、きちんと自明ではない証明をしつつ進めるので大変であった。毎週金曜日が実験だったので、実験後も実験を進めたり(電気電子系の実験はこれができないから辛かった)、土日に実験結果をまとめたりレポートを書き、隙間の時間で『線型代数学』を読むという生活だった。調布祭は研究室周りをした。研究室配属のための懇親会では先生と Galois 理論と解の公式の話をしていた。一応、配属面談というのも行ったが、三次方程式の解の公式の話を1時間ほどしていただけである。週1回セミナーで話をしていれば、さすがにどんな人物かなんて、配属面談をするまでもなくわかる。
学部4年¶
4年になる直前に地震があった。研究室の建物は古く、窓ガラスが割れたり本棚が倒れたりした。学部4年からは輪講と卒業研究が始まった。輪講で読んだ本は浜田隆資・秋山仁『グラフ論要説』。絶版だが、日本語で書かれたグラフ理論の本としては内容がしっかりしている。もっとも、私は輪講では発表せず、参加して発表者に突っ込む役回りだった。私の輪講は『線型代数学』の続きで、ちょうど第V章のテンソル代数に入ったところだった。
卒業に必要な単位があと1だけ残っていたため、不可を消すべく「現代数学入門A」という講義を履修した。学部1年で落とした論理学の振替だったので、ちょうどよかった。内容は集合と位相の基礎である。周囲の学生を驚かそうと松坂和夫『集合・位相入門』を持ち込んでみたが、電通大生でこの本を知る人は皆無で、担当の先生から「お、松坂先生の本だね。君、再履修かな?」と目をつけられる結果になった。
大学院入試も行われ、私は推薦入試を選んだ。まず5月ごろに学科長推薦を得るべく学科の面接を受け、学部2年からの反省を踏まえて勉強を始めたことが功を奏し、難なく学科長推薦を得られた。続いて7月に大学全体で推薦入試が行われ、これも面接である。一応入試なので律儀に合格掲示を見に行ったが、ほかに見に行く人が誰もいない程度に、落ちる要素のない入試である。学科面接、推薦入試ともに意思確認程度の面接で、実際のところほとんどGPAで決まる世界だ。先生からは「別に一般入試でも受かるでしょ」と言われたが、そう簡単にはいかない時代になっていた。一般で受けた知り合いの中には、落ちた人も何人かいた。
数学を本格的に学ぶために別の大学院へ進む選択肢もあったかもしれないが、数学専攻としては何も知らない学生であり、組合せ論で生きるうえでは電通大でも問題ないと考え、そのまま推薦を選んだ。数学を真摯に学んだとはいえ、結局は数学科の学部で習う範囲である。8月ごろに『線型代数学』を終え、卒研に向けて動き出した。卒研中間発表では、グラフ理論に関するSzemerédiの正則化補題について話した。グラフ理論はこの補題の登場で大きく変わったと私は思っている。卒研自体は、同期が発表した論文を題材に改良に取り組んだ。最終的には使わなかったが、Mathematicaを用いてグラフ理論に関するプログラムを書き、実験も行った。無事に審査に合格し、卒業することができた。
修士1年¶
学部3年のときに学科改組が行われ、大学院では改組後の専攻に属した。大学院で驚いたのは、必修の講義が複数あること、そして選択科目を20単位も取得しなければならないことだった。問題は、その選ぶべき講義が改組後の専攻の講義であるため、前提となる知識が全くない状態で選ばなければならなかった点だ。全くの専門外である経営工学やセキュリティ、ネットワークに関する講義などは大変だった。また、大学院にはオムニバス形式の講義が複数あり、内容が中途半端にならざるを得ない状況に困り果てた。役に立たない講義でも、考え方によっては意味があることもある。コンピュータに関する話をオムニバス形式の講義で聴いていたが、面白くなかったので、出てきたキーワードを検索していたところ、春秋戦国時代の宋の哲学者である荘子を知った。面白そうだったので『荘子 内篇』を購入して読んでみたら、やはり面白く感動した。学科改組の影響でMathematicaのライセンスが切れて使えなくなり、代替としてSageMathを使うようになった。SageはPythonがグルー言語として使われているので、Pythonも使い始めるようになった。ゼミではB. L. van der Waerden『Algebra』を読んだ。すでに第7版で、ドイツ語から英語に訳されたものを読んでいた。抽象代数学の教科書の開祖ともいえる本で、加群は登場せず古いといえば古いのだが、王道を行く構成である。群から始まり、Galois理論や体の無限次拡大までを読んだ。秋ごろから就職活動も始まった。博士課程も考えたが、社会に出るなら早めに出たほうがよいだろうと思い、就職することにした。今では博士後期課程に進んだ後、大学教員ではなく企業に進むケースも増えてはいるが、それなら早く社会に出たほうが活躍できるのではとも考えた。いろいろ調べるうちに、大学教員の枠は想像を絶するほど狭いことがわかり、それに動じない心を持ち合わせていなかった。夢や霞を食べて生きていけるならよいのだが、私はそこまでの人ではなかった。就職活動に関しては深くは触れないが、とにかく就職活動でゼミや後輩の世話が難しくなった。学部の友達は別の専攻や別の研究科、大学院へ進んでしまったので、孤独だった。
修士2年¶
就職活動は6月までかかった。大学入試でも感じたことだが、私の進路は良くも悪くも数学と共にある。センター数学で失敗したり数学で点を稼いだり、懸命に勉強した結果、就職活動で煙たがられたり興味を持ってもらったりと、数学に振り回されつつも共に歩んできた。高校卒業時、クラスで今後の目標や夢を語る機会があり、そこで「数学者になれるかはわからないが、数学を仕事にしたい」と発言した覚えがある。結果的にそうなりつつあるのが不思議である。大学入試は第一志望の東工大から電通大へ、仕事も数学者から数学を使う(またはきちんと知っている)技術者へと。『Algebra』も読み終え、いざ修士論文へと進んだが、代数そのものを研究対象にするには、数学専攻としてはあまりにも基礎的なことしか知らないという現実を知った。そこで、代数と組合せ論、整数論の辺境に活路を求めた。その結果、等比数列の密度に関する論文を見つけ、その改良に取り組んだのが前期である。等比数列なのである意味当然かもしれないが、改良のために素数に関する結果が必要だとわかったのが面白かった。後期は前期の内容の改良に取り組んだが限界を感じ、別のテーマを探し、結果的にグラフ理論に関する問題の改良に取り組んだ。修士論文としては、等比数列とグラフに関する結果を並べて掲載し、提出して無事合格した。Pythonは修士論文でも数値実験のために使った。論文は本質的に理論であるから数値計算は不要だが、Pythonで計算して正しさを確信してから証明を書き出したり、既存研究との比較に数値を代入して計算したりする際に用いた。とても便利な言語である。修士論文の発表会で怒りを覚えたことがあった。ある学生が、たまたま席を外していた先生の看板を借りて自分の質問を正当化しようとしていたからである。はっきりと自分の意見として「あなたの研究は研究のための研究で、役に立たない」と言えばよかったのにと思った。役に立たなそうだと思うのは勝手だが、それを自分の意見として言わず、教授という権威をもって主張してくる態度に怒りを覚えた。「あなたの研究は役に立っているのですか。『今後の課題』とか言っている時点で役に立っていないのでしょうね」と言い返したい衝動に駆られた。博士前期課程(修士)とはいえ研究者の端くれなのだから、自分の意見を持ち、自分の責任で主張してほしい。学問に対して「今このときに役に立つのか」という短絡的な価値観・思考は危険だと思う。このあたりの感情は『荘子』の影響を受けていると思う。学部も修士もグラフ理論で論文を書いて学位を得たので、私の専門は組合せ論であると言い張ることもできるが、学部や修士でひたすら学んだのは代数であり、本当の専門はわからない。今後の仕事で役に立ちそうなのは代数であるので、決して無駄ではないと思う。3月に掲示板を眺めていたら、無事に修士(工学)の学位を得たことを確認できた。ひたすら数学の勉強や研究をしていた学生生活の結果として工学の学位(学士・修士)をもらうというのは、何とも不思議な話である。
最後に¶
幾度となく「面白くない講義」と書いてきたが、それでも私は電通大が好きである。大学の価値は、講義だけで決まるものではない。今どき数学科の学生ですら読まない数学書を読み、発表するという地味な学生生活だったが、とても面白かった。学士・修士の学位論文も組合せ論という数学分野で、他の電通大生とは異なる道を歩めた。学部1年の頃に溝上慎一『大学生の学び・入門』で読んだ「大学とは与えられるのを待つ場所ではなく、自ら求める場所である」という趣旨の記述は、まさにその通りだった。大学を「講義を受ける場」とのみ捉える認識は、少なからず悲劇を生む。
少し後悔しているのは、数学を共に学ぶ友人がいなかったことである。よき友人は多くいたが、いずれも工学を学んでおり、数学は先生の助けを借りながら一人で読んでいた。仲間がいたほうが、よりよい学生生活になっていたかもしれない。4月からは社会人になる。あまり自分の人生を決めつけずに生きたい。