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無用の用

2013-11-24 公開

就職活動に限らず、大学で学んだことを誰かに話すと、「それは何かの役に立つのですか」という反応が返ってくる。 いわゆる工学系に属する人たちは、ある程度の自信を持って、どのように自分の研究が世の中に役立っているかを示せるだろう。 一方、理学系や人文科学系に属する人たちは、はっきり述べるのが難しいことが多い。 これをどう解決すればよいのか。

私は2つ考えた。

  • 応用を見つける
  • 気にしない

前者は一般に工学と呼ばれるものであり、理学系では有力な手段だが、人文科学系では相当厳しいと思われる。 ここでは後者について考えてみたい。 「気にしない」というのは相当難しく、もし難しくないなら、こんな記事を書こうという動機すら存在しないはずである。 この難題を考えるためのヒントとして、『荘子』内篇の逍遥遊篇を引用する。 以下に挙げるのは、恵子の批判と荘子の反駁からなる2つの問答で、荘子本人の作ではなく、内容に即して付け加えられた話と考えられているものである。

荘子 内篇 逍遥遊篇 四

恵子、荘子に謂いて曰わく、「魏王、我れに大瓠の種を貽れり。我れこれを樹えて成り、而して五石を実たす。以て水漿を盛れば、其の堅きこと自ら挙ぐる能わず。これを剖きて以て瓢と為せば、則ち瓠落として容るる所なし。呺然として大きからざるには非ざるも、吾れその無用なるが為めにしてこれを掊りたり」と。荘子曰わく、「夫子は固より大なるものを用うるに拙なり。宋人に善く不亀手の薬を為る者あり、世世絖を漂すことを以て事と為せり。客これを聞き、其の方を百金にて買わんことを請う。族を聚めて謀りて曰わく、我れ世世に絖を漂すことを為せしも、数金に過ぎず。今一朝にして技を鬻ぎて百金となる、請うこれを与えんと。客これを得て、以て呉王に説けり。越に難あり、呉王これをして将たらしむ。冬、越人と水戦して、大いに越人を敗れり。地を裂きてこれに封ず。能く不亀手するは一なるに、或いは以て封ぜられ、或いは絖を漂すより免れざるは、則ち用うる所の異なればなり。今、子に五石の瓢あり、何ぞ以て大樽と為して江湖に浮かぶことを慮えずして、其の瓠落として容るる所なきを憂うるや。則ち夫子には猶お蓬の心あるかな」と。

荘子 内篇 逍遥遊篇 五

恵子、荘子に謂いて曰わく、「吾に大樹あり、人これを樗と謂う。其の大本は擁腫して縄墨に中たらず、その小枝は巻曲して規矩に中たらず。これを塗に立つるも、匠者顧みず。今、子の言は大にして無用、衆の同に去つる所なり」と。荘子曰わく、「子は独り狸牲を見ざるか。身を卑くして伏し、以て敖者を候い、東西に跳梁して高下を避けざるに、機辟に中たりて、罔罟に死す。今、夫の斄牛は、其の大なること垂天の雲の若し。此れ能く大たるも、而も鼠を執うること能わず。今、子に大樹ありてその無用を患う。何ぞこれを無何有の郷、広漠の野に樹え、彷徨乎として其の側に無為にし、逍遥乎として其の下に寝臥せざるや。斤斧に夭られず、物の害する者なし。用うべき所なきも、安ぞ困苦する所あらんや」と。

いずれの問答も、恵子が役に立たないものとして大きな瓢箪や大木を取り上げ、いかに役に立たないかを説く。それに対して荘子は見方が間違っているとし、大きな瓢箪は湖に浮かべればよく、大木は何もない場所に植えて、その下で寝そべり考え事をすればよいと説く。 また、人間世篇には狂接輿の言葉として、次のような一節がある。

荘子 内篇 人間世篇 八

「山の木は我とわが身を損ない、灯火は我とわが身を焼きつくす。肉桂はなまじ食用になればこれ伐られ、漆はなまじ有用ならばこそ割かれる。人は皆な有用の用を知りて、無用の用を知ること莫きなり」と。

つまり、人々が口々に問う「役に立つか」とは、有用の用を意味する。 無用の用には目もくれず、有用の用しか考えないのである。 無用の用の「無用」は世間の人々にとっての無用であり、その無用に着目し、その用に気づくことが大事である。 科学の発展がその典型例である。

「用うべき所なきも、安ぞ困苦する所あらんや」。役に立たなくても、気にする必要はない。